『お下がり』 4
- 2008/05/17(Sat) -
「お下がり」 (5月10日掲載以降)


 それからも志野は週一のペースでやって来たが、いつも部屋に
入った後だった。そのたび、多加雄は車を蹴り飛ばし、鋭利なもの
で車体を引っ掻いた。だが、志野は車の傷やへこみについて何も
言わなかった。多加雄は志野の白に耐えかね、傷みについて尋ね
ても志野は誰かのイタズラと平然としていた。多加雄のほうが何か
隠し事し、嘘を付いているような妙な気になった。志野には聞きたい
ことが山ほどあった。嘘や隠し事をどんなふうに心に納めれば、あれ
ほど冷淡でいられるのだ。多加雄は結婚以来、志野のことを最も見
ていた。
 志野は多加雄がリストラされたことを知っている。半年ほど前、那
岐が学校で怪我したことを多加雄に知らせるため会社に連絡した際、
そのことを受付嬢から聞かされた。夫がリストラされたことより、その
ことを話してくれぬことが志野にはショックだった。そして、志野は今
も気づかぬふりを続けている。
「女はすぐ『何で何で』と聞きたがるが、余り戴けないな。女みたいに
何でも全部言ってしまわないのが男だからね。本当に言わなければ
ならないことは必ず言うから」
 悟朗と付き合っていた時、志野は一度諭されたことがあった。そし
て、多加雄と結婚する前日にもう一度念を押された。
「あの子は君ほどやり手ではないからね。一緒に暮らしながらもどか
しく感じることが多々あるだろう。だからといって、何で何でと追い込
み、潰さんでやってほしいんだ。私なんかと違って、あの子はとことん
優しいぞ」
 振り込まれる給料に不安を感じるようになっても志野は悟朗との約
束を守った。家計をやりくりするため、志野は自分の定期を切り崩して
いた。まだ小学生とはいえ、那美や那岐の塾や稽古事の月謝もバカ
にはならなかった。
「リストラされることがわかっていたら、あの時家を買っといてもらうん
だった。車も中古にしたのに」
 定期を崩すたび、志野は心の中でそう愚痴った。志野は悟朗の勧め
で結婚した。幾ら愛する人の勧めでも結婚相手に嫌悪感を抱いたなら
結婚はしなかった。悟朗の言うように多加雄は優しかった。自分のこと
を殆ど語らなかったが、十年の肩身が狭い恋に終止符を打たせてくれ
る男と思うと志野は嬉しかったし、優しさに別れの傷を癒してももらった。
悟朗との別れはこれからのことを思い、両者納得済みの清算だった。
十年の間に数え切れぬほど志野は悟朗に抱かれてきたが、抱かれて
も抱かれても悟朗を自分だけのものと感じたことは一度もなかった。多
加雄に抱かれているとそれが感じられたし、自分だけを見ていてくれる、
何処にも行かないのがわかるから安心できた。多加雄の愛し方はお世
辞にも上手とは言えなかったが、志野は満たされていた。だが、もう何
年も多加雄との交わりはない。子育てに追われて疲れていても多加雄
に優しくされたいと思う夜がある。『何で何で』と多加雄に聞きたいことが
志野にはたくさんあった。
 
 志野は近所に住むコーラス仲間、横田有紀と電話で話していた。
「ねぇ、今日の午後、また車貸してもらえます?」
 有紀は志野より九つ下の三十六だったが、子どもがいない所為か五つ
六つは若く見える。最近、有紀は誰かのコンサートで知り合った大学生と
逢瀬を重ねている。マイカーを持たぬ有紀はそのたび、姉のように思って
いる志野に車を借りにくるのだった。愛車がどういう使い方をされているの
か志野は薄々勘づいていた。修理代や口止め料込みのガソリン代は申し
分なかったし、車のローン返済に充てることができた。
「この間、あるところで多加雄さんを見かけたんだけど、最近何か変わっ
たことない?」
「別に、いつもと変わらないけど。あるところって?」
 有紀は電話の向こうで一瞬、言い渋ったがチューブの中味を一気に絞
り出すようにラブホテルの名前を口にした。
 その夜、志野は体調が悪いと嘘を付き、食事の支度をボイコットした。
そんなことをしたのは結婚以来初めてである。次の朝も志野は起きなか
った。志野が悪いのは体調ではなく、機嫌であることを多加雄は何となく
勘づいていたが、敢えてその訳を聞かなかった。多加雄は子ども達に食
事させ、自分の弁当を詰め、仕事に出た。食卓には志野の分の目玉焼
きや珈琲が用意されていた。
 塩コショウを忘れた目玉焼きにかぶりつきながら多加雄が入れ上げて
いる女はどんな女なのだろうと志野は考えていた。今の自分を悟朗が見
たら、「君らしくない」と顔をしかめるだろう。しかし、多加雄も一端の男だ
ったと思うと足はひとりでにホテルへ向かった。昔、ちょっとばかし持て、
仕事ができたからといって自分もただの一人の女、夫の浮気に嫉妬し、
狼狽える普通の女なのだと志野は苦笑いした。
 今ひとつ垢抜けないラブホテルに志野は納得しながらビニールのカー
テンを通り抜け、奥まったところに車を止めシートを倒した。多加雄が今
日訪れるという保証はなかったが待たずにはいられなかった。
 部屋でシーツの交換をしていた多加雄は一服するため、駐車場に煙
草を吸いに出た。煙草は公園で仲良くなったリストラ仲間から勧められ
て始めた。
今では押しも押されもせぬヘビースモーカーである。リストラ同様、喫煙
も志野には内緒で、隠れて吸っていることが何となく後ろめたい。隠れる
ようにして煙草をくゆらせていると多加雄は遅咲きの不良少年になった
気がした。煙草に火を付けながら志野の車が停まっているのに気づいた
多加雄は反射的に車に向かって歩き出していた。
 志野にも近付いてくる男の姿が見えていた。変な色の作業服を着た中
年男は煙草をくわえ、その顔も険しいのが遠目でもわかった。手には棒
のような物を持っている。志野は怖ろしくなって身をかがめ、目を閉じた。
 車の中の人影に驚いたのは多加雄である。原型がなくなるほど爪先で
煙草を踏みつけた後、ドアを開けた。
「こんなとこで何してる」
 聞き慣れた声に志野は目を開けた。ラブホテルに多加雄が現れたこと
より、くたびれた作業着を着た人相の悪い男が多加雄だったことに志野
は驚いた。
「あなたこそ、何でこんなところにいるの」
「君こそ、いつもここで誰と会ってるんだ」
 前科もあることだしな、と多加雄は小声で付け足した。
「車、友だちに頼まれて貸してるの。知ってるでしょ、有紀。ガソリン代
弾むって言うし、あの頃、今もそうだけど格好なんて付けてられないし。
…何でリストラされたこと言ってくれなかったの」
 その光景は授業をサボタージュした息子を問い詰める母のようだった。

 (つづく・次回更新は随時。最終回です!)
                                    鉄線



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コメント
- -

読みました!
志野と多加雄の二人の気持ちの変化
がどうなっていくんだろ・・・。
来週の最終回楽しみにしています。
2008/05/17 17:55  | URL | しろ子 #-[ 編集] |  ▲ top

- ありがとう -

さぁ、どうなるんでしょう (^^)v
2008/05/17 18:21  | URL | 鉄線 #-[ 編集] |  ▲ top


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