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『テグス』 (最終回)
- 2008/06/16(Mon) -
「テグス」 (6月6日掲載以降)

 ドアの覗き穴の向こうに麻亜子を見た時の宇佐美の驚きようと
いったらなかった。それ以上に麻亜子の髪が黒でなくなっている
ことに心臓が瞬間凍ったようになった。
 麻亜子もスーツ姿でない宇佐美を見るのは初めてだった。宇佐
美が幾ら若く見えると言っても、無精髭に水疱瘡でくたびれた姿は
やはり年相応だった。それ以上に部屋の大半を占領している三セ
ットの百科事典に麻亜子は圧倒された。
「これが壮一朗、和輝、美季ちゃんの百科事典?家族五人、この
部屋狭いでしょう?」
 言いながら麻亜子は何て大人げないと思った。しかし、とにかく
狭い部屋だった。小さな丸いテーブルとシングルサイズのベッド、
百科事典三セットで宇佐美の部屋は飽和状態だった。麻亜子の
嫌味は宇佐美にも届いたはずだった。けれども、宇佐美はそれに
答えるどころか、髪も梳かさず、パジャマ姿のまま着替えもせず、
ほうじ茶を運んできた。その顔には観念の色が窺えた。
「来る途中、考えごとしててお見舞い買うの忘れちゃった。身体の
ほうはもういいの?」
「まだ本調子じゃないけど、この度はゆっくり静養させてもらった」
 ほうじ茶の置かれたテーブルに掛けられたクロスは以前、宇佐
美が娘の誕生日にと買って帰ったベトナム・ターイ族の織り上げた
民族布だった。他にもあった。会社の女の子に頼まれた、お得意
先に配る、上司の奥さんの誕生祝に‥‥と宇佐美が購入してい
った見覚えのある雑貨があちらこちらにあった。宇佐美は自分の
病み上がりの冴えない姿より、雑貨を見られたことのほうが幾らも
恥ずかしかった。
「ここはフランジパニの二号店?‥‥宇佐ちゃんは嘘ばっかりね」
 ほうじ茶の入った湯呑みはバレンタインのお返しにするから、と
購入していったものである。麻亜子は宇佐美をキッと睨み付けた後、
ほうじ茶を一気飲みした。
「麻亜ちゃんとこんなに親しくなれるとは思ってなかったから。勿論、
お客さんとこんなことになったのも初めてで。一番最初に付いた商
品を売るためのお決まりの嘘が次第に自分の首を絞めるようになっ
て苦しかった。テグスを抜きながら今日は本当のこと話そう、明日
は必ず言おうって」
 セールスマンとして麻亜子のマンションを訪れている時のような
軽快さはなかった。病み上がりだからというよりは、目の前にいる
物静かな宇佐美が麻亜子は地のような気がしていた。
「精子の数が極端に少ないらしくてね。それが原因で女房に捨て
られ、何をやるにもそのことがコンプレックスになってきた。『種なし』
と書かれたスイカやぶどうのチラシを見ると、今でも心がざわつくよ」
 麻亜子のように自分のことを欠陥品とさらりと言ってみせる潔さが
五十になってもまだない、と宇佐美は言った。
「潔くもないけれど、最初から持ち合わせていないんだから仕方が
ないじゃない。その分、他人が持ち合わせていないものを与えられ、
生まれてきたと信じてる。今あるものに感謝しながら生きないと。
五十になって、無いものねだりはちょっとがっかりかな」
 宇佐美が独身だったら、と麻亜子はこれまでどんなに思ってきたか
知れない。宇佐美と男と女の関係になってしまったことに後悔はなか
ったが、宇佐美が妻帯者であることで罪悪感に呵まれていたのも確
かだった。宇佐美は誰の者でもなかった、という現実が麻亜子をより
強気に、そして、より優しくしていた。
「嘘は自分の中に土足で踏み込んで来られないための処世術だった。
いい歳して独りだと人は必ず何で?どうして?って反射的に聞く。歳
を重ねるにつれ、セールス先で余計根掘り葉掘り聞かれるようになっ
て、それで架空の家族を作り上げた」
 話しているうちに本当に自分には家族がいるような気がしてきて、
子供たちのために次々と百科事典を買ってしまったと語る宇佐美は、
罪を淡々と認める容疑者のように無防備だった。
 宇佐美はこの一週間、ベッドに横たわりながら女房に捨てられて
からの十五年間を振り返っていた。しかし、思い出されるのは惨めで
恨みがましい十四年ではなく、麻亜子のマンションへ通った心地よい
一年ばかりだった。麻亜子にそう話すことはできても、麻亜子が髪を
染めて現れたことで、さっきから心に小さくもない波が立ち続けている
ことは言えなかった。
「‥‥髪、染めたんだね。もうテグスを抜く必要がないんだね」
 優実から逆三行半を言い渡された時、ドライアイスのプールに突き
落とされたような痛みが全身に走ったのを宇佐美は思い出していた。
全身不安の塊のような宇佐美を見つめながら、麻亜子は何も言わず
バッグからタイピンを取り出した。何度見てもただのくたびれたタイピン
だった。そんなタイピンを麻亜子は目尻に仄かな横皺を湛えながら、
いつまでも眺めていた。(了)


※「テグス」、いかがでしたでしょうか?最後まで読んで下さったかた、
  どうもありがとうございました。
                               
                                鉄線

                          
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コメント
- おわっちゃった。 -

今回も楽しく読ませていただきました。
毎回あっという間に終わってしまうようで。
書くのは大変なんでしょうけど、
これからもたくさん書いてください。
もちろん次回も楽しみに待ってま~すe-420
2008/06/16 17:20  | URL | ぽん吉 #-[ 編集] |  ▲ top

- ありがとう。 -

また書かないと載せるものがなくなってきて
しまいました。いつも読んでくれてありがとね。
2008/06/16 21:14  | URL | 鉄線 #-[ 編集] |  ▲ top

- 二人のその後。 -

これだけの小説を書くのはすごく
時間もかかるし、大変だと思うけど、
続きが知りたい・・・。
二人は幸せになれたんだろうかなぁ・・・。

これからも、小説楽しみにしていますv-20
2008/06/18 09:18  | URL | しろ子 #-[ 編集] |  ▲ top

- Thanks -

しろ子もいつも小説やエッセーを読んでくれて
ありがとね~。またコツコツと書かなくちゃね。
2008/06/18 11:17  | URL | 鉄線 #-[ 編集] |  ▲ top


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