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掌編小説 『猫に聞け』(後編)
- 2018/07/24(Tue) -
16179499_猫の家

『猫に聞け』 (後編)    
        
 訟子は古田と付き合い始めても休日はカフェに出向き、原稿を書き続けて
いた。店は午後になると客足が一気に増え、阿波踊りの演舞場のごとく騒然
としてくるため、大抵は静かで筆の走りが良い午前中に原稿を書き、午後は
あちこち見聞に走り回る。
 盗み聞きも客足の少ない午前中が意味深で良い。大抵の話は店内に流れ
る音楽と一緒に右耳から左耳に抜けてしまうが、稀にパソコンを打つ手を止
め、聞き入ってしまう話がある。その瞬間、訟子は人の営みの裾野の広さ、
奥の深さを実感しつつ、獲物を見出しては一気に川面に急降下するミサゴへ
と変わるのだった。
 ある日、訟子の定席の通路を挟んだ斜向かいの席に女性二人が賑やかに
入店してきた。訟子と同世代だろうか。一人は長髪で痩身、もう一人は短髪で
小太りである。長髪が一方的に話し、短髪は聞き役に徹している。長髪の綾
(あや)は若い頃に離婚し、秋田町で小料理屋をしながら子どもを育ててきた。
その子どもも結婚し、自分も残りの人生を好きな男と幸せになりたいと思って
いる。もう五年ほど店に通ってくる客の中に同じ高校の一学年下の男がいて、
学生の頃から綾に憧れていたらしい。
「チーちゃん、雨の日にずぶ濡れの猫みたいに店にやってきて、最初は何とも
思わなかったんやけど、アーちゃん、アーちゃんってかいらしいんよ。そこの工
学部の教授で、結婚して専業主婦になるんもええかなって」
 綾の話を聞きながら短髪はどんな顔をしているのか訟子は気になった。短髪
は頷いているだけなのか、話に入り込む隙が見つからないのか、綾の声しか
聞こえなかった。
「チーちゃんみたいなんが母性本能をくすぐるタイプなんよね。私も負けるくらい
の猫好きで、あっちのほうも相性ええし、今まで苦労してきた分、やっと運が回
ってきた感じ」
 この日、訟子はいつもより早くカフェを後にした。独善的な話を聞くのは根気が
要る。短髪もげんなりしてカフェを後にすることだろう。福島橋上空をミサゴがた
おやかに旋回し、反対側の歩道をひょうたん島に向かって猫がはんなりと歩くの
を見た。
「ちょうめい」
 振り向かなかったが、白と黒の毛の配色が確かに長明だった。
「長明もどきだったんかな?」
 家の庭にいる時より凛として大人びて見えた長明。見間違えるはずはないと
思いつつ、確信がなかった。空似と片付け、福島橋を後にしたが、この時、訟子
のみぞおち辺りにできた小さな泡沫は消えないままだった。
 夕方になると、いつものように五匹が物干し台に上がってきて、餌を所望した。
訟子は長明を抱き上げ、昼間、福島橋を歩いてなかったか尋ねた。五匹の中で
も甘えん坊の長明。名前を呼ぶと、必ずニャーと返してくれる。
「ちょうめい」
「ニャー」
 やはり、昼間の猫は長明ではなかったのだ。呼ぶとこんなにいい返事をする。
五匹に餌を与えながら、ふと昼間は何処にいて、何をしているのか気になった。
若い頃、訟子の友人が二股を掛けられ、大騒ぎになったことがあったが、自分
も五匹に二股をかけられているかもしれないと思った。うちの猫と思っているが、
実はよそ様の猫で、自分はただの都合のいい女、退屈しのぎかもしれない。見
えない部分が見えないと誠実なのか不実なのかを判断することはできないが、
仮に不実だとわかっても、五匹がくれば訟子は餌を与え、寝床を提供するだろう。

 冬の間も五匹は家に通ってきた。猫アレルギーの古田のこともあり、家の中に
は入れなかったし、五匹も安易に入らなかった。気高い微香を放つ庭の紅梅は
五匹の爪研ぎと化し、痛々しい。古田も五匹も居心地が良いから通ってくるのだ
ろう。わかっていることより、わからないことのほうが多かったが、それで良かっ
た。自分の親兄弟、親友についても実はよくわかっていない。縁や出会いは必
然であり、生きることを玄妙に感じながらも全てを把握する術を持ち合わせてい
ない以上、バイアスが内在していることもわかっていた。
 訟子はパソコンをカバンに詰め、カフェに出かけた。すぐ後から長髪と短髪が
入ってきて、川沿いの最も奥の席に訟子、その手前の席に二人は座った。少し
高めの背もたれがパーテーション代わりである。座ると顔は差さない。綾は猫
の話をし始めた。
「うちの猫ちゃん、いっぺん見に来んで?店に出るまでは五匹がおやつを食べ
て、しおらしくしとるけん」
 五匹。訟子は「うちと同じ」と言いそうになった。毛色が真っ白をしらこ、スモー
クをつみれ、黒をごま、ホルスタインをミルク、茶トラをゆばと名付けたところは、
さすが小料理屋の女将である。訟子は(毛色まで同じ)と思いながら猫の名前
を書き留めた。
「まだプロポーズされてないけんど、行く行くは結婚したいと思とんよ。チーちゃ
んも紹介したいし。最後のチャンスやけんな」
 結婚したい女は最後のチャンスと自己暗示にかけ、自分の背中を押すのだ。
元々、男のほうが片思いだったが、今は女のほうが盛り上がっている、そんな
感じだった。
「チーちゃんって、名前何ていうん?年を重ねてからの恋愛もええね」
「チカラって言うんじょ。主税って書いてチカラ。名前ほど力強くはないけんど」
 主税(ちから)と聞いた瞬間、握っていた赤鉛筆の芯が折れた。窓の外を流れ
る福島川の川面より大きな漣(さざなみ)が訟子の心を波立たせていた。自分
の男と思っているが、本当はよそ様の男で、自分は都合のいい女のほうかも
しれない。見えない不実が本当であり、見えていた誠実が実は嘘だったりする。
見えない部分はわからない。五感を働かせて感じ取るしかないのだ。確信は
持てなかったが、綾のチーちゃんは古田主税、綾のしらこ、つみれ、ごま、ミル
ク、ゆばは、漱石・百閒・寂聴・長明・兼好のような気がしていた。福島橋で見
かけたのはやはり長明だったのではないか。お色気たっぷりに「ミルクぅ」と呼
んでやれば、長明はくるりと振り向き応えたかもしれない。新蔵町にある綾の
家に行く途中だったと思うと、手足の震えが暫く収まらないほど腹が立った。
 人も猫も、家の外で見かけると別人、別猫のように映り、心に薄膜が張った
ようになるから不思議である。これから別の女のところに出かけるのだ。別人、
別猫のように見えて当然かもしれない。モチーフ探しの盗み聞きで自分が撃
沈されるとは思ってもみなかった。この日、訟子は綾の甘ったるい声の横を
通り、追いかけてくる麝香(じゃこう)の香りを振り払いながら何も書かずに店
を出た。
 その日の夕方、古田がふらりとやってきた。何も連絡もなしにやってくるとこ
ろは相変わらず猫的である。都合が悪い時は実に潔く帰ってゆく。そんな聞
き分けの良さに古田はこういう都合のいい家を何軒も持っているのではない
かとさえ思う。
 台所でパスタを茹でながら古田を呼んだ。
「チーちゃん、そこのジェノベーゼの瓶、蓋開けといて」
「よっしゃ」
 古田は気づいていない。麺は柔らかめが好きな古田だが、今宵は少し芯
残して笊に打ち上げた。アルデンテは訟子の好みである。そして、居間の窓
も今宵は少しだけ開けてある。古田と過ごす時は和やかだった春秋の川に
先ほどから海嘯(かいしょう)が起きている。起こしたのは訟子である。いつも
と様子が違う居間に好奇心旺盛な百閒がそろりそろりと入ってきた。餌時だ
からというよりは古田の声や体臭に反応してのことだろう。
「お、つみれじゃないか」
 古田の低くしなやかな声に他の四匹も入ってきて納豆のようにまとわりつ
いた。マスクを忘れた古田は先ほどからクシャミを連発し、目を掻いている。
綾の飼っている猫が訟子の家に何故か入り込んできて、古田は外に出そう
と、あの通夜の日くらい大わらわである。
 訟子は台所から居間を眺めていた。よそ様の居間を覗いているようで気持
ちが悪かった。見えないものが見えた瞬間、みぞおち辺りに留まっていた不
快な泡沫が海嘯に弾き飛ばされ消えた。
「チーちゃん、そろそろご飯にせんで」
 古田は赤く腫れぼったい目をカッと見開いたかと思うと、よろめいて寂聴の
尻尾を踏み、抱いていた漱石を床に落とした。(了)

                               鉄線

※読んでいただき、ありがとうございました。この作品は、第1回阿波しらさぎ
文学賞に応募した作品ですが、久しぶりに小説を書き、楽しかったなぁ。




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